■ホーチミンにもスーパー銭湯はあるか■
これは帯同前に調べたくらい、私にとっては重要なことだ。
新卒時代、埼玉県配属で一人暮らしをしていた頃、あまりの激務さに、休日の趣味といえば「マイカーでスーパー銭湯巡り」になっていた。
幸い埼玉県は充実したスーパー銭湯が多数あり、趣味になるのにさほど時間はかからなかった。
当時仕事に明け暮れ彼氏を失った私は、とある合コンで「趣味は何なの?」と聞かれ、
意気揚々と「スーパー銭湯巡りですね!」と答えたことすらある。
後日、幹事だった先輩に「あれはもう合コンでは言わない方がいいよ」とご指導いただいたのも懐かしい思い出である。
さて、ホーチミンはというと、どうやらここ数ヶ月でわずかにでき始めたらしい。
日曜日に(野球で)全身筋肉痛になった旦那様が、火曜日になって
「疲れが抜けないので銭湯に行きたい」
と言ったので2人で夕食後に行ってみることにした。
ホーチミンでの勤務時間は8:00〜17:00と、
日本で共働きだった頃に比べて健康的になったので、夕食後の生活も充実させることができる。
夕食後の銭湯。
初老の夫婦である。
今回はまだGoogleマップには載っていない、野球仲間オススメのお風呂に。
清潔感を心配していたが、日本人がオススメするだけあってとてもいい匂いのする綺麗な受付だった。
早速スイカとキンキンに冷えたお茶を無料で2人分提供してくれたので
(これ風呂上がりに欲しいやつだけどな)
と心の中で呟く。
ここは日本のスーパー銭湯とは少し仕組みが違い、ベースはマッサージ店であった。
マッサージをする人には、大浴場とサウナが無料で付いてくる、といった具合だ。
日々疲れることがない私は最低ランクのものでいいです、と旦那様に伝え、それぞれのコースを注文した時だった。
『マッサージはどちらか1人しかできません。それと、女性用の大浴場はもう閉めました。』
英語ペラペラの若い女性スタッフがハキハキと言う。
そんなに悪びれている様子はない。
「Hey〜!!」
全然英語を喋れない私だが、なぜかアメリカンな動作をセットにして、旦那様に向けて「おいおい」という意味のHeyを発声する。
時間は21:00。
ここまでのタクシー代は250円ほど。
こうなるのは嫌だから、家を出る前にネットで営業時間を調べてから出発しようねと話していた矢先の出来事だった。
ネット上には特段情報は見つけられずにいたようで、来てみたらこのありさまだ。
スタッフが「帰れ」と言わんばかりに店の名刺を渡してきたので確認すると
営業時間が手書きで「22:30」と書き直されている。
…まだ閉店まで90分もあるように見えるのは私だけだろうか?
疑問の目を旦那様にぶつけると、旦那様はイライラしながら「帰ろう」と言った。
最初は賛同し、店を出たのだが、はたと我に返る。
いやいや、タクシー代がもったいないだろう。
無収穫の250円ほど馬鹿らしいものはないし、疲れを取りたくてせっかく来たのだから、
と説得し、旦那様だけでもマッサージとお風呂に入ることを勧める。
もう一度受付に向き直る。
先ほどのスタッフは笑顔で迎え入れたが、
どうやら奥のベトナム語しか喋れない中年女性スタッフは怪訝な顔で何かを若いスタッフに伝えている。
なんとなくだが、店全体が「帰れー帰れー」と言ってきているように感じる。
先ほど2人分提供されていたスイカとお茶は即座に取り下げられていたようで、
すぐに戻ってきた暇になるであろう嫁に、急いで1人分のスイカとお茶を戻す。
(おい、もう1人分はどこいった)
そんなことを考えながらお茶をすする。
寒い。
ご存知の方もいるかと思うが、ホーチミンは多くの店でアホみたいに冷房を効かせる。
長袖の持ち歩きは必須である。
ところがお風呂でホカホカになる気でいた我々に長袖などない。
そしてフットマッサージ中であるはずの旦那様からピコンとLINEが1通。
もう一つあると聞いていた別の銭湯のURLであった。
それ以外に文章はないので、とりあえずURLに飛ぶ。
真新しく、いかにも日本で私が好んだ銭湯だというレビューが書かれたブログだった。
よく見ると女風呂も深夜1時まで営業している。
そして家から徒歩でも行ける距離。
なぜだ。なぜいまこれを送りつけてくるんだ。
行きたいに決まってる。
むしろ、行けってことか?
そう考えているうちに携帯の電池が切れてしまった。
同時に私の心の電池も切れる。
まだ旦那様が案内されてから5分しか経っていない。
マッサージ30分。
サウナが大好きな旦那様のことだからきっとプラス30分は最低でも必要だ。
あと55分。寒い。
終わった…
下を向き、目を瞑る。
携帯の電池があればその辺のバーにでも飲みに行けただろうか?
仕方なく、持ってきていたバスタオルを自分に巻きつける。
どれほど眠っていたのだろう。
ふと目を覚まし顔を上げると旦那様が会計をしている。
(あれ21:35。早いな)
旦那様はクレジットカードの使用を断られ、私の家計用の財布から現金をせびってスタッフに渡す。
なんだ?なんか苛立っている。
旦那様が急いで店を出るので、タオルを巻いたまま慌ててマッチ売りの少女も店を出る。
『もう二度と来ん。…もー二度と来ん!』
1回で聞こえていたが、重要な伝達事項だったのだろう、2回言ってくれた。
タクシーに飛び乗ると旦那様が饒舌に語る。
彼の主張はこうだ。
・全身の疲れをとりたくて来たのに、時間的にフットマッサージ30分しかできないと言われた。
・閉店まで90分あったのに女風呂は閉まっているとはどういうことだ
・どこにもそんなこと書いてなかった
・おまけにフットマッサージを終えて大浴場に行くと、もう時間なので掃除に入っている。だからシャワーだけ浴びて帰れと言われた
「それは最悪だったねぇ」
マッチ売りの少女はとくに感情を寄せることなく同調する。
そして最後に旦那様は強い口調でフィナーレを迎えた。
『おまけに掃除してる奴がめっちゃデカい声で歌いよんや!!!むっちゃ腹立ったわ!!!』
マッチ売りの少女の右側で旦那様が異常に怒るので、少女は左側の顔だけで笑いを堪える。
想像しただけで笑いが込み上げてくる。
こんな奴を横目に、全身(野球で)疲労困憊の旦那様がシャワーを浴びたのだ。
掃除中の陽気なスタッフはきっとこう歌っていたのだろう。
『かっえっれ!かっえっれ!帰れ〜っ♪』
不憫である。
私からすれば「これがベトナムクオリティー」なので特段腹も立たないのだが、
旦那様は相当な想いで銭湯に来ていたのだろう、家に着くまでしつこく鼻息を荒立てていた。
そしてマッチ売りの少女は窓の外を眺めながら気付くのだった。
この結末で一番不憫なのは自分だ、と。